終日半径5メートルの雑記。

アラサーのある程度せきららな記録。

好みにまつわる呪怨物語・前編

こんにちは。紺野です。

前回あのままつらつら書いていたら、5000字を軽く越えようかとしていました。もはや自分の情念に狂気しか感じない。呪怨に出演していてもおかしくない。そして思いました。これはもうブログのネタとして消化しよう。もとい浄化しよう。そしてもうこの一連の出来事は思い返さない。二度と。

 

情熱と勇気と後悔と

あれは私が高校を中退し、ニート生活が始まって、引きこもるかこもらないか片足突っ込んでるか突っ込んでないかの頃。世間では「バトル・ロワイアル」という映画が話題になっていました。北野武が言います「今日はみなさんにちょっと、殺し合いをしてもらいます」。

私は一瞬で心を鷲掴みにされました。ころしあうの? なにそれすごそう。

念のためここで一筆しておきますが、決して私はころしあいが好きなわけではありません。限られた場面で展開するお話が好きなのです。たとえば密室、あるいは孤島、村・・・聞けばかの映画は島を舞台にサバイブするらしい。

・・・観たい。でも一人じゃ嫌だ・・・誰か・・・誰か!

しかし映画が映画です。当時の友人は真面目な優しい子、大人しい子が多かったので人選をとても悩みました。私がころしあいの映画を観たいなんて言ったら絶対に、絶対に引かれる。

でも、でも観たいんだッ!

今思えばなぜそんなにあの映画を観たかったのか。謎の熱に動かされていたとしか思えない衝動でした。

そして当時の友人の一人に緊張しながら誘ってみました。自発的に誰かを誘うなんて私の人生の中ではとても稀なことです。小学校の家庭訪問のとき、家にいたくなくて誰かを誘ったとき以来です。

その子は高校受験に失敗して、そのまま家で家事手伝いをやっているとのことでした。きっと私と同じように世の中に対する鬱憤がたまっているはず!

私「あ、もしもし元気? 私、紺野だよー。久しぶりー」

友「わー久しぶり。元気してる?」

私「元気元気。あのさ、今度さ、もしよかったら遊ばない? 観たい映画があるんだけど、一緒に行ってくれる人を探しててー」

友「え? 映画? 何の映画?」

私「えーっとあのー、ちょっと派手なストーリーのやつなんだけどー・・・」

友「えー? まさか、あのバトルなんとかってやつじゃないよねぇー?」

柔らかな彼女の声には、じんわりと軽蔑の色が混じっていました。

・・・しまった。なんか、著しく間違えたかも人選を。

ここですかさず「まっさかーあんな悪趣味なの誰が見るんだろうねーははははは(白目)」って言えたらどんなによかったか。けれど、中途半端な勢いがかかってる状態では会話はやすやすと止められず。

私「ぐっ!・・・ん、そう、それ・・・」

 

友「あー、嫌い」

 

私「そ・・・かー・・・嫌いか、んじゃ仕方ないねー・・・」

さっきまでとは打って変わった彼女の低く投げやりな声に、何とか言葉を搾り出しました。こういう反応もある程度は予想していましたが、実際に言われるとけっこうダメージがあって、面と向かって自分を嫌いだと言われたような気すらします。

そして。

友「ああいうのって人間的にどーなんだろうね。あの映画の話題、耳にするだけで気分悪いし。生理的に受け付けないっていうか、とにかく嫌い」

私「だよねー・・・はははは(死)」

私の声は消え入りそうだったと思われます。ショックでした。そのあと電話で何を話したか覚えてないくらいに。

友「まさか紺野ちゃんがああいうの好きだったとはねー。あんなのどういう人が好んで観るんだろって思ってたけど、まさか紺野ちゃんが。へー。すごいね紺野ちゃん。私には良さがまったくわからないけど」

 

・・・つらい。

 

好きなモノを否定されるのってこんだけ辛いんだね。しみじみ思いました。そして後悔しました。友達を軽んじ、柄にもなく主張して人を巻き込もうとした自分バカヤロウと。

でもじわじわと怒りがわいてもきました。その電話の1ヶ月ほど前に彼女からの誘いで、遊びに行ったときのことを思い出したのです。

 

後編に続きます。

 

 

凜として孤独

前回の記事、若干くどくどくどくどしてましたね。すみません。自分でも眩暈がして読み返せないくらいです。でもってたぶんずっとこんな感じですかね。まあひと通りくどくどぐよぐよしたら落ち着いて、また読んだ本とか観た映画とかの話になるかと思われます。こればかりは自分でも着のみ着のままやっているので、どうなるかわかりません。ずっとくどくどかもしれないし。ずっと中身がないかもしれない。

 

話題がないという不可避

引きこもり歴10年になる私、堂々と友達と呼べる人がいません。・・・勝手に呼んでいいのなら2人ほどいますが、年に2~3回連絡を取り合うだけの仲です。どちらも高校の頃の友達でどちらも中退者。一人はシングルマザー(在学中におめでた)、もう一人はフリーター

最近どうよ? 的な会話をするわけですが、私の身の上には滅多な変化は起こりませんので、世を揺るがしている事象について熱弁をふるいながら(嘘です)ただただ暑いね、あるいは寒いねと言っています。

引きこもりはまず話題がないのです。では趣味のことでも、と思うけれども趣味も合わない。自発的にする話が気象のことくらいしかないって悲しいですよほんと。・・・まあ自業自得か。

 

親友ができない

学生の頃でもそうですけど、昔から趣味や好みがばっちり合う友達はいなかったですね。出会ったことがないんですよね。引越しが多かったせいもあるかもしれません。でも、きょうだいですら好みはバラバラだし。そりゃネット上にはいくらでも検索すればいるでしょうけどね。みんなよくぞそんなに親友と呼べる奇跡に出会えるなと思ったりします。それとも私の考える親友の定義がそもそも間違ってるのでしょうか。

・・・なるほど。考えてみればそうですね。好きなモノや価値観が一緒とかいう薄っぺらな条件じゃなく、ココロの熱いやり取りが親友を生むのでしょうね。ジャイアン曰く「心の友よ」のように。なんだか凹んできました。

そもそも好みが完全に一致とかってあり得ないんだ。リアルなやり取りの中で好みをぶっちゃけてそれが否定されたときの悔しさ空しさ侘しさ哀しさを私は良く知っている! (・・・え、誰?)

 

というわけで、この話、長くなるのでまた次回。

 

 

完璧な自分などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。

なんて、村上春樹風なタイトルにしてみました。こんばんは、紺野です。

ブログ内容がグロ黒しくなりそうなので、タイトルくらいは斜め上?な感じでいこうかな、と。深い意味などありませんのでスルーしてください。

タイトル考えるのが苦手な方は、『ホッテントリメーカー』がおすすめですよ!

 

軽く自己紹介

今さら感ハンパないですが、ここらで少しは触れておかなければと思いました。

とは言っても、なにから書こう。

とりあえず、底辺である、ということを明言しておきましょうか。

無職であり、引きこもりであり、アラサーであり、なにもない。

引きこもり歴は10年になります。(!)

おそらく22か23あたりからこもってます。仕事も定職についたことがなく、アルバイトをいくつかやったくらいで、それまで以前もふらふらしてました。明確な区切りがわからないのですが、とにかく引きこもりのベテランであることは確かです。怖い。自分でも怖い。

ちなみに学歴もない。

高校2年で中退してしまったので最終学歴は中卒なんですね。アイタタター。

資格もなければ、免許もない。清々しいほどになんにもない。ムスカさんの名ゼリフ「まるでゴミのようだ」がこれほどしっくりくるのも私くらいだよという、まさに人生詰んでます状態。

私はこの10年何をしてきたんだろうなぁ・・・

なにもしてなかったんだろう。

 

絶望が平常運行

底辺生活も長くこじらせると、絶望したままでも平気になってきます。絶望した状態が普通になってくるのかな。果たしてそれは開き直りなのか麻痺なのか。ただただぼうっとしているだけなのにいつの間にか今日も始まり終わっているんです。

大抵ぼうっと絶望して過ごすだけの毎日ですが、たまにどうしようもない大絶望が襲ってくるときがあります。ビッグウェーブってやつですか。でかい波。そういうときは某マニュアル本の表紙が浮かびます、何度もね。でもって浮かぶだけですけどね。決断力と行動力が著しく欠けているため、活用することもありませんが。

そこから浮上するにはとりあえず食かなーと思ってるんですけど。ほとんどの場合、食べると落ち着いてくる。しばらく目や鼻から水が流れたり、どこか一点を見つめ続けた後、ですけど。

寝る、現実逃避もいいんですけど、そういうときってたぶん98%眠れないし、逃避するにも意外とパワーが必要なんで。

・・・といったら食べるしかない。たぶん嗅覚を刺激してもらえると大丈夫です。

 

とはいえ、このブログは1歩を踏み出すための前向きブログじゃなく

以前は同じような境遇の人のサイトやブログに慰めてもらおうとしたこともありました。

けれど、大抵のブロガーさんは自分のことを底辺だニートだ喪女だメンヘラだゴミくずだって書いておきながら、すでに働いていたりする。活動している。もはやとっくに過去になっている。

それを見て思うのは、「なんだよみんなちゃんとやってるじゃん」「わざわざ自虐的にならなくていいじゃん」てことで、同族意識どころじゃない。

彼らが底辺を名乗るなら、現在進行形でリアルに底辺の私はなんて自称すればいいのか。

超底辺?

超底辺はいわゆる底辺ではないので、堂々と高らかにブログや公の場でそれらを自称してはいけないんじゃないかしら、まして自虐ネタにして笑ったりなんて、過去のことならまだしも現役の当人がそれをやっちゃおしまいだろうよってことなんじゃないかしら、あ、ブログの説明文のとこやプロフィールのとこにも 「超」って付け加えといたほうがいいかな? でもトップ画をまた作り直さなきゃいけなくなるのは面倒すぎるし・・・そういえば冷蔵庫にあったドーナツって賞味期限今日までじゃなかった? とぐるぐる考えて夜も眠れなくなりそうでしたが、違う思考ループにはまり、いつのまにか食べていました。おいしい。

そんなこんなで様々な底辺を自称している方々のブログを見て痛感しました。

ブログやってる暇があったら、自分の状況に目を向けろ。活動を記録するからこそブログの意義ができてくるのだ。動かない不燃ゴミのブログなんて何の意味があるのだと。

でもさ、でもでもさ、気付いたのです。ブログやることでむしろ自分の状況を見つめなきゃいけないんだってこと。活字化するということは、普段自分の頭の中だけで考えているのとは随分訳が違うんだってこと。だったら逆に? 逆にいいんじゃない?

停滞している人こそブログ。停滞しているからこそブログ。

・・・スローガンぽくていいな。うん。

ブログの価値観なんて人それぞれ。人を無闇に中傷しない、公序良俗に反しないということを前提に自分のやりたいようにやる、自分のためにやる、それこそがブログの根源だと思うので、このたび私も始めましたとさ。

 

なんか後半から何を書いてるのか自分でもわかんなくなってきた。

けど、読み返すのも面倒だから投下。